末の松山 波こさじとはす(え)かたげんだいごやくながもとすけたが( に現たいしょう涙だ代ふ語た訳り)まつやま ぐ におしじしんつたじしんきしの 仏 もかきもかこ計いやいうや谷糀くおよこお おこいえすひくにににめにひあくなみ枕まく草らごのそ子うし』の筆者でのこすえしまつやまぜん ごおおおなちぎりきな かたみに袖でをしぼりつつはっぴゃくろくじゅうきゅうくらじだい飛あす鳥か時じ代だいから鎌まか倉らく時じ代だいまでの百人らっかの歌人の歌ひとりいっしゅあるお清ぐ少らひ納さいごゃくに言んねんがついっしゅあそかじんなかちち清よきだいぶつ原のはら元とも輔けすおかうたなみひゃくしゅおぐらひゃくにんいっしゅおぐらやまえらせん永と遠わに変わきょうときよはらのやくそくすえまつやまなみふたりひゃくにんまつやまかまかじんうたちか貞観んが 今回の東ひがし日ひがしこうじに本ほひがしこうじん大いだ震んし災いさな波なみは「末の松まつ山やま」たいふうは越えることはぼうさいありませんですえまつやまみやぎけん多た賀が城もやちこんかいつなみすえじゅういちねんちかがんじしんつなみおおすえぜったいすえまつやま 波なみ津波『小お倉ら百まつやま人ん● 上野の大な 所在地:台東区上野公園内一みだいぶつ 小高い丘の上にかつてあった大仏首は安政2(1855)年の江戸地震で』らっか落下し、その後、修理されましたが、かんとう関東大震災でふたたび落下しました。とう ぶ頭部、胴体は太平洋戦争中、金属資げんざいだい山んさ源として供出されてしまい、現在は大荘うそぶつ仏の顔だけが残っています。清 原 元 輔先人252523しょざい ちぶんきょう く はくさんかんとうひなんせいかつしょざい ちおお た く ひがしこうじさいがい じひ なんしゃちょう い けいれいねんときたけじしんとおかひゃくおおりっしゅんとおかひゃくがつとおかはつかひゃくまんにんひ さいしゃいじょういち ぶしょざい ちこだかそあんせいかおふうすいがいぼうさい き のうせつちかこたかおおちょう いつくとしたいふうたいふうひなんじょたいとう く うえ の こうえんないうえねんたいへいようせんそうちゅうちょう い けいしおおおがつついたちたいふうつたたいふう際いさにおおこ いしかわしょくぶつえんおおたくりつひがしだいしんさい き ねん ひうえぼうさいこうえんこうじかく ちちょうけいのこ53末ゑの松山 波こさじとは藤じふ原わらの定さだ家えいえどじしん例とた三ん位● 大田区立東さ陸くり 所在地:大田区東糀谷4-5-1 沿んえ岸んがぼうさいこうえん 災害時に避難者を受け入れる防災機能をもった東糀谷防災公園をなが襲そには、潮位計が設置されています。潮位計には、東糀谷地区に流おれる呑川の防潮堤の高さと過去の大きな台風が来襲した時の潮のたかかい高さが示されています。潮位とは、潮の干満によって変化する海めんたか面の高さのことです。やちときへん か● 蜂が例年より巣を低く作る年は台風が多い。● 二百十日、二百二十日は台風が来る。 ※二百十日は、立春から二百十日目の日。9月1日ごろに当たり、この前後は台風が来るすえまつやま末の松山石碑 ことが多い。二百二十日は、9月10日ごろで、同じく台風が多いことで知られる。● 地震の時は竹やぶに逃げろ。社総国● 小石川植物園の「大震災記念碑」 所在地:文京区白山3-7-1しょくぶつえん 関東大震災の被災者3万人以上がこの植物園ない内に避難し、その一部は、ここにあった避難所でちょうき長期の生活を余儀なくされました。最後の被災者が退去したのは、大正14(1925)年1月のことでした。防災トピック風水害にかかわるもの防災公園の潮各地に残る防災の言い伝え
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