末の松山 波こさじとはす(え)かたげんだいごやきょうくふたりもとすけたが( に現涙だ代語訳)まつやま ぐ にまつやまなみなみちぎりきな かたみに袖でをしぼりつつ『小お倉ら百人ん一首』はっちょうぴゃくろくじゅうきゅうくらじだい飛あす鳥か時じ代だいから鎌まか倉らく時じ代だいまでの百人の歌人の歌ひとりいっしゅおぐらひゃくにんいっしゅあそかじんなかちち清よき原のはら元とも輔けすなみひゃくしゅおぐらひゃくにんいっしゅおぐらやまえらうたせんちょう永と遠わに変わきょうときよてけんはらのやくそくすえまつもちゅうやくばやまなみふたりまくらのちくそうしひゃくにんまつやまかまかじんうたちか貞観んが 今回の東ひがし日に本ほん大いだ震んし災いさな波なみは「末の松山」は越えることはありませ●「自然は過去の習慣に忠実である」んで●「ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしい が、正当にこわがることはなかなかむつかしい」防すえまつやまみやぎけん多た賀が 防災の心構えとして、有名な言葉です。物理学者の寺田寅彦の言葉と言わ城れていますが、寺田博士の著作の中で確認することはできません。実際は、ちてら だ はかせか寺田博士の弟子で「雪博士」として知られる中谷宇吉郎が、関東大震災の後、かくげん恩師の言葉として書き記したものです。寺田博士は、この他にも防災の格言をいくつも残しています。もちこんかいつなみすえまつやまじゅういちねんがんじしんつなみおおすえぜったいまつやますえ 波なみある清少納言枕草子』の筆者で津波際いさにすえまつやまおおきそ しもかきこかおし しあ こおよ術文談社寅彦供災だ田庫かおいおこししんつたじしん清 原 元 輔先人つなみながていかいちょうじょうあんほいわていきょうちゅういわてけん2321みやぎけんせんだいわんいわてけんとうほくちほうたいへいようおきじしんぼうさいで しことばのこし ぜんせいとうゆうめいことばてら だ はかせゆきはかせしるぶつ りがくしゃなかてら だ はかせみんしゅくうえとらひこてんさいてらかんこうせんけい しこうくうたいだんしゃがくこうだんしゃじゅつこぶんこくぼうこうていきょうていきょうていきょういわてけんちゅうきゅうじょそら宮城県仙台湾に到達した津波(提供:海上保安庁)倒壊した岩手県大槌町役場(提供:岩手県大槌町)警視庁警備犬による懸命の捜索すえまつやま末の松山石碑(寺『天と国警視庁航空隊による空からの救助より提』講学)(講談社より提供)51末ゑの松山 波こさじとは岩手県大槌町赤浜地区の民宿の上に乗り上げた隣町の釜石市の観光船「はまゆり」(提供:岩手県大槌町)じ藤じふ原わらの定さだ家えい山んさ荘うそ例とた三んさ陸くり沿んえ岸んがを襲そおことばかんとうえあとぼうさいほか防災トピック「天災は忘れた頃にやってくる」社総国〈東北地方太平洋沖地震〉
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