防災ノート_311を忘れない_小学校
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のうごまだしじとくりろろぎくりじししごご震しん災さいで大きな被害を受けた東京は、どのように町を復興していったのでしょうか。都と復ふっ興こう展てんしゅっ』に出品された八や重え洲す16げんざいとうきょうきょうきょうとふっこうきねんかんすみだくとしんさいふっこうきねんかんすみだくとうとうときょうときょうきねんかんきねんかんぎょうしょうふっこうじぎょうと うきょうかんとうてんじしょうてんじかんとうおおかんとうはっせいいつかごかかげつ たごとうしんぺいひようりそうあんどうぎょうじょうじつこうはばひろしたまちちくけんちくしみんきょうきゅうたくおことしだいとうひがいちょくだいじんていとふっこういんせっちあんこうたいきょうげすいどうこうえんどうかくせいちゅうしんたてものきんきょうかたらとうきょうていあんつよとうきょうそうあんしだいたくいくじゅうのはらてっきんはかせつりつまちふっこうもととうきょうちょうだいとしせかいとうとう東京都復興記念館(墨田区)東京都震災復興記念館(墨田区)かんとうじ 東京都復興記念館には、関東大震災とその後の復興事 東京都震災復興記念館には、関東大震災とその後の復ぎょう業についてのさまざまな資料が展示されています。興事業についてのさまざまな資料が展示されています。 昭和5年開催『帝てい覧らん会かい橋付近(東京駅前)の模も型けい[東京都復ふっ興こう記き念ねん館かん所しょ蔵ぞう]ねんしょわかいさいぴんばしふきんとうえきまえきょうときょうとうしんはっ 関東大震災発生直後、内務大臣となった後藤新平(元東京市長)は、なんと地震の発せい生から5日後には「帝都復興の議」という提案を出しました。「復旧」ではなく「復興」を掲げ、1か月足らずで帝都復興院を設置し、猛烈なスピードで復興に取り組んだのです。とう それは、震災に負けない、震災に強い東京をめざし、世界に誇れる大都市として、東きょうだい京を大改造するためでした。46しし 関東大だい 後藤新平の復興案は、壮大な理想案でしたが、莫大な費用がかかることもあって、次第に縮小されます。理想案からは後退しましたが、震災復興じ事業は、道路・上下水道・公園・教育・住宅など、多岐にわたって実行されていきました。や 幅の広い幹線道路がつくられ、焼け野原となった下町地区を中心に区画整理がされ、鉄筋コンクリート建築による建物の不燃化が図られました。市民からの義えん金により同潤会が設立され、じゅう住宅の供給も行われました。 現在の大都市東京の骨格が形づくられたのです。後藤新平の「復旧」ではなく「復興」へ現在の東京を築いた震災復興事業知って知って知って知って困難を乗り越え、東京は復興へ

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