A小学校B中学校C高等学校 「震災を生きてー記録 大震災から立ち上がる兵庫の教育ー(兵庫県教育委員会)」から作成[参考資料]避難所となった学校の1週間平成7年(1995)1月17日(火)1月19日(木)○宿直代行員により開門○グラウンドに避難者が数十人来る。○体育館を開放し、避難者を受け入れる。○保健室にて職員数名で応急処置を行う。7時長野県に修学旅行中の校長に電話で連絡○けが人は教職員が近くの医療機関に搬送○遺体が搬送され、一時的に体育館に安置する。○近隣の倒壊家屋の下敷きになった人の救出作業へ職員が数名出向○遺体を教職員の自家用車で区役所遺体安置所に搬送する。○学校備品の毛布・布団を全て配布する。夕方、避難者を運動場から体育館に誘導。放送が使えないので、ハンドマイクを使用したが、通じにくかった。夕方、電話復旧後、避難住民の安否確認が殺到するが、対応しきれず。18時避難者約1,500人となる。○17日中に電話は復旧した。○深夜コッペパン300個、毛布200枚搬入○終日停電勤務職員 27名 宿直 6名く。る。7時前夜届いた食料を配給するが、極めて少なくパニックになる。9時おにぎり1,000個、もち、たくあんを配給(整理券作成)10時避難者は約1,200人となる。運動場の焚き火には生徒の椅子や、家財も投げ込まれる。○南隣接公園に非常用トイレを掘る。13時○給水車が初めて来校する。15時○保健所が治療に来校18時○食料の搬入はごくわずか○夜間運動場で野宿する避難者多数勤務職員7名宿直3名○混雑を避けるため、早朝又は深夜に生徒、教職員の○早朝コッペパン300個を配布13時避難者約2,000人教室にも避難者がなだれ込む。○LNGタンクのガス漏れによる避難勧告により、避難者が倍増し、その対応に苦慮する。○救援物資がトラックで届き、避難者のボランティアとともに降ろし作業、配布作業に当たる。○修学旅行の帰着受け入れ準備を行う。○保健室での重傷者の看護を行う。○倒壊家屋からの遺体搬出・教職員の車で搬送○懐中電灯とカイロを搬入○終日停電勤務職員 28名宿直 7名安否確認電話をする(~1月23日)。1月18日(水)○避難者数が約2,400人となる。○部屋ごとの班編成、避難所名簿作りの準備にとりかかる。午前「おにぎり3000個大作戦」展開。米、水、電気炊飯器を調達15時おにぎり完成。各部屋(班)代表が配布作業(自治活動の芽生え)。班編成の基礎となる。○遺族の方から遺体安置について不安、要望が多く出○児童の安否確認を最優先にと職員室黒板に指示○民間(個人・企業)からの救援物資が多数届く夜、ボランティアリーダー職員室ミーティング。(1)班編成(2)トイレ掃除当番制(3)弁当などの配給システム(4)電話当番などの生活ルール作りとボランティアの役割分担確認(生活ルールは「お願い」として1月25日プリント発行)21時1年生女子児童の死亡確認(父、妹とともに)○職員室の床に雑魚寝始まる。勤務職員 32名宿直 2名9時避難者約1,000人避難所生活と運営システムがほぼ確立。班組織として29班が決定○運動場に駐車場用の白線○掲示板用の伝言板設置19時満池町で火事。プールの水を防火用に確保しておいたことが活かされた。トイレの汚物処理は水なし法で継続(トイレ当番制)○保健室に24時間体制救護所が開設された。○ようやく学校再開が管理職の話題となる。○最初の炊き出しボランティア(豚汁、大阪市立平野小学校)○緊急事態対応スタッフの中からボランティアリーダーが生まれる。勤務職員 32名宿直 2名8時地域ボランティアと共に食料配給9時周辺倒壊家屋に残された人の捜索・救助のため、自衛隊が集結○仮設電話2台が設置される。学校の電話番号と異なるので、安否確認の情報も少なかった。○毛布、衣類が搬入される。○救援食料の配布案内にハンドマイクを手に走り回る。夕方校長室と、会議室に電話が各1台設置される。勤務職員 13名宿直 5名○第2学年が修学旅行先の長野県から帰着。被害状況の説明、保護者への引渡方法についての説明などを行い、帰宅させた。○給水車が初めて来校した。○終日停電勤務職員 29名宿直 9名2296
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