防災ノート_311を忘れない_高等学校
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第一章災害について写真1 復興道路・昭和通り、震災後幹線道路として整備された。写真2 復興大公園・浜町公園。江戸時代の熊本藩藩主、細川家の邸宅跡に整備された。写真3 清洲橋、「復興の華」と呼ばれた優美さが特徴。平成19年に国の重要文化財に登録された。渡市で8m以上を超える津波が観測された。 関東大震災は火災、東日本大震災は津波が被害を大きくした。関東大震災における死因については、平成23年版防災白書によると火災が87.1%であった。東日本大震災における死因については、警察庁発表(平成23年9月9日)によると津波による溺死が90.5%であった。●避難状況 関東大震災は人口密集地に大きな被害をもたらしたため、被災者は約340万人にのぼり、ピーク時の避難者数は190万人を超えた。 約6割もの建物が被災した東京市内では多くの人が寺社や公園へ避難した。明治神宮や宮城前広場などにはテントが設営されたがとても収容しきれず、公園や神社、小学校の焼け跡や校庭などに仮設住宅が建てられた。震災から約2か月半後には市や区が管理する仮設住宅で約2万1,000世帯、約8万6,000人を超える人が避難生活を送っていた。治安や衛生状態の悪化を懸念した東京府・東京市は協議して小規模住宅を建設し、徐々に撤去を進めた。 東日本大震災では、被害の大きかった岩手県、宮城県、福島県を中心に避難者が増え、震災発生から1週間後で約38万6,500人であった。国や県は応急仮設住宅の着工を急ぐ一方、地方公共団体の公営住宅や民間の旅館・ホテル、借り上げた民間の賃貸住宅などへの二次避難や一時的避難という方法を活用して避難生活の解消に努めた。その結果、避難者数は発災から2週間後に約24万6,000人に、1か月後に約14万7,500人、3か月後には約8万8,000人まで減少した。●関東大震災後の東京の復興やまもと本 震災発生直後の9月2日に発足した第2次山ごんべえ権平は、帝都復兵衛内閣で内務大臣に就任した後興院総裁を兼務し、東京を震災前の姿に戻す「復旧」ではなく、新たに生まれ変わらせる帝都復興計画を策定した。後藤は、焼失区域だけでなく、焼失を免れた山の手や郡部も対象地域に含め、道路や運河、公園、鉄道などを含む総合計画を構想していた。 ところが財源不足のために計画は大幅に縮小され、後藤の理想からは大きく後退した。それでもライフラインの整備や都市施設の近代化、鉄筋コンクリート建築による不燃化などの土地区画整理事業が実施された。 都心部を十字に走る昭和通り(写真1)と大正通り(靖国通り)の整備、隅田・浜町・錦糸町公園(写真2)、隅田川の近代的な橋々(写真3)、小学校に隣接する52の復興小公園や復興小学校など、都市防災の機能を加味した下町地区の原型は、この計画に基づいて昭和5年頃までに形づくられたものである。 市民の義援金で設立された同潤会は、簡易住宅を約2,000戸、郊外住宅を約3,700戸、鉄筋アパートメントを約2,500戸とその他で、合計1万2,000戸建設して、震災後の住宅の近代化をリードした。ごとうしんぺい藤新『江戸から東京へ』(都立高等学校地理歴史科用 東京都教育委員会発行) 関東大震災とそこからの復興については『江戸から東京へ』に紹介されている。中央気象台始まって以来の激震の様子は、浅草のシンボルだった12階建ての凌りょううんかく雲閣が被災した様子や、振り切れた地震計の写真から想像できる。また、関東大震災の損害総額は当時の国家財政の4倍を超える65億円と推定され、日本経済にも大打撃を与えた。 また、都内には震災記念堂や東京都慰霊堂、復興記念館など、震災で亡くなった人々を偲しのび、こうした大きな惨事が再び起きないことを願う史跡が残されている。震災から復興し、生まれ変わった東京を象徴する復興小学校、耐火商店街、同潤会アパートなど、当時の建物を見ることができる。77

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